幼時から、モノの見方が人と違うと言われてきた筆者が、一味違った切り口から語ります。心の一服の清涼剤になれば。
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「遠慮する」・「断る」・「見送る」

言葉が記号化している。

英語は国際語として広く使われるようになってから、よく使用される単語とそうでない単語の使用頻度の開きが格段に大きくなったと言われる。本来、単語が違えば似た意味でもニュアンスが異なるものだが、そのようなニュアンスに無頓着になり、大づかみの意味が取れればそれで良いという方向になっているというのだ。尤も、ノン・ネイティブにとって、母国語並みのボキャブラリーの習得を求められても所詮は無理だ、という事情もあろう。

一方、日本語は国際語には程遠いが、やはり記号化する傾向にあると感じている。タイトルに示した3つの動詞は、ある程度似た意味で使われるが、ニュアンスは大違いである。以下のケースで考えてみよう。

AさんはBさんに投資案件を紹介した。それに対するBさんの返事が、これら3つの動詞の何れかで行われたとする。それぞれどのようなニュアンスを帯びるだろうか。私見を述べてみる。

「遠慮しておきます。」
これは、理由は定かではないが、Bさんの気が進まないということを丁寧に伝えている。理由が定かでないから、Aさんはそれ以上Bさんにお勧めはしないし、紹介したことが奏功しなかったことについて、Aさんに気まずさは生じない。

「お断りします。」
これは、Bさんの意思は明確だが、AさんからBさんにお願いしたことについて、Bさんが拒否したというニュアンスを感じる。Bさんは、お断りする理由を述べるかも知れない。ただし、Aさんにしてみれば、何もBさんにお願いしてまで投資をしてもらおうとはもともと思っていなかったのに、という気まずさが残る可能性がある。

「見送ります。」
これは、Bさんは投資する意思がないことが明確であって、しかも、Aさんのお勧めについて、一定の意味を認めたニュアンスを感じる。Bさんがさらに誠意を見せるなら、見送る理由を述べるだろう。

以上、私見ではあるが、これだけのニュアンスの違いを、私はこれらの表現から感じるのである。こうした感じ方は人それぞれであろうし、また、多数派がどう受け取るのかが、これから将来に向けた日本語の方向を決めていくのであろうが、少なくとも、こういう区別が曖昧になっていくことは、言葉が記号化する傾向にあることを示していると言えると思う。

言葉が記号化すると、記号として示したか示していないかが重要となり、それ以外のことはさして意味を持たなくなる。

余談だが、随分前に電車の中で居合わせた小学生と思しき2人の女の子の会話。一人が「ごめんね」と繰り返し、もう一人が無言でうつむいている光景。延々と「ごめんね」が続き、無言の子がこっくり頷いて、やっと「ごめんね」を言うのをやめた。それは恰も、「こんなに、ごめんねと言っているのに、何で許さないの?」というニュアンスを帯びているようにさえ感じたものだ。

言葉が記号化すると、気持ちは言葉のみを通じて表現される。逆に、言葉にならないことは表現されたことにならない。そういうコミュニケーションが一般化した日には、人間の感情は退化していくのだろうか。
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# by myview | 2006-01-05 01:53 | 私の見方

「勝ち組」・「負け組」に思うこと

21世紀に入ってからか、「勝ち組」、「負け組」という言葉がよく聞かれるようになった。それは、当初は、「勝ち組」に属すると思われる人々の成功物語から始まって、それらの人々の成功体験を綴った本が書かれ、そして、「勝ち組」と対比させた「負け組」という言葉が生まれて、「勝ち組」に入るためのノウハウ本が出てきた。

そこでは、どういう人が「勝ち組」に入り、どういう人が「負け組」に入るのか、という二元論的なアプローチで、「勝ち組」に入るための「秘訣」が説かれている。

昔から、「船に乗り遅れる」という言い方があったし、そこには一種の焦りのようなニュアンスすらあった。うかうかしていると船に乗り遅れるぞ、ということで、船に乗るべきか否かということをじっくり考える余裕が残されていないかのような風情であった。

「勝ち組」、「負け組」の世界もこれに似て、どこか、急がないと「負け組」になってしまう、という焦りを感じるのは私だけだろうか。

さて、ここで特徴的だと思うのは、「組」という呼び方である。勝ち負けという二元論的なアプローチ自体は、少なくとも、高度成長期にはなかったと思うし、バブル崩壊後久しくして生まれた新しい捉え方という気がするが、個々人ではなくグループとして捉えようとしているあたり、やはり、日本人らしいという気がする。

要は、勝ち方にも負け方にも多様なパターンがあるのであって、さらに言えば、ある結果を持って勝ったと考えるか負けたと考えるかということ自体、解釈の余地のあることなのである。物事には表裏があり、明暗がある。その一方にのみ着目して勝ちを論ずるならば、その他方に着目して負けを論ずることも可能だ。

そのような中で、「勝ち組」を目指すそうとすると、それは、とりもなおさず、「勝ち組」に属していると周囲に認識されることを目指すことになりがちだと考える。実際にそうなっている例として、「勝ち組」を自負する人々が、その著書の中で、同じく「勝ち組」に属しているとみなされている人々との交友関係(=ある場合には交遊関係か。)をことさら強調しているケースが挙げられる。

スポーツと違い、人生における勝ち負けは、ある一時点で判定できるほど、人生は単純ではない。一生の間、異なるルールで、異なる相手で、数限りない勝負をしているのが人生だとすれば、そのうちのただ一回だけの勝利を目指すことにどれだけの意味があるだろうか。
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# by myview | 2006-01-04 23:17 | 私の見方

「戦略」の意味について

最近、至る所で「戦略」という言葉を聞くようになった。そして、「戦略」とは「戦術」とは違い、戦う目的を達成するための戦術の使い方である、ということまで言われている。

戦略とは、言うまでもなく、一国の軍が他国と戦争するときの発想から派生して、企業経営など、複数のプレイヤーの競争状態の中で優位に立つための方法論ぐらいの意味で用いられている。

そもそも戦略とは何であろうか。戦争における戦略に思いを馳せるとき、そこには、「敵」という存在が明確にある。それは、自らを現に攻撃している敵である場合もあれば、自らが優位に立つために倒す必要のある敵である場合もある。何れにせよ、そのような敵のことを明確に捉えて初めて、戦略という発想が生まれるのである。

こう考えると、戦略というものは不可避的に勝敗を伴うものであると理解されよう。敵に優位に立つためには、敵を負かす必要があるからである。その点、市場で競争する複数のプレイヤー間で戦略が語られるとき、倒すべき敵の存在は明らかでない。倒れない敵に対して常に優位に立つための努力を強いられる、という言い方もできよう。その点で、戦争における戦略とは前提条件が異なるが、基本的な発想は同様だと考える。

戦略の成功は、敵を倒せたかどうかで決まる。ただし、その敵とて、こちらから仕掛けられた戦いに無抵抗でいるはずがなく、当然、反撃を試みるであろう。そして、こちらの攻撃と相手方の反撃との巧拙により、勝敗が決するのである。力量において相手方が明らかに劣る場合は別として、どちらが勝つかは、ある程度は心理戦による部分もあろう。

以上、述べたことは、いわば積極的な戦略、打って出る戦略であって、このような戦略とは別に、いわば消極的な戦略というものも成り立つ。それは、相手方からの攻撃を防御する戦略であり、日本の自衛隊の防衛的機能も、この消極的な戦略に立つものであるべきなのであろう。

消極的な戦略においては、攻撃を仕掛けてきた敵に対して、力量的にこちら側が優位であることを見せ付けるか、そこまでは無理としても、敵に対して、こちらを攻撃するメリットをより小さく、デメリットをより大きく見せる必要がある。これは、実際に示すのでも、心理戦によるのでも、両方の方法があり得る。

さて、積極的であれ消極的であれ、戦略というものは、敵の存在があって初めて成立するものだとすれば、最も戦略を立てにくい場合は、敵が存在しないケース、あるいは敵の存在が明確には把握できないケースであろう。

話が飛躍するようだが、日本が、高度経済成長を経て、バブルの崩壊を経験し、その後、いわゆる「失われた10年」を過ごすことを余儀なくされたのは、思うに、敵の存在がみえない中で、その経済的優位性を維持するための有効な戦略を打ち出し得なかったからではないか。
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# by myview | 2006-01-04 21:19 | 私の見方

「論理」の力

論理性が強調される時代になった。ものの考え方においても他人への説明の仕方においても、論理的であるかどうかが問われることが多くなった。

論理とは、考え方の筋道の一つのルールであり、このルールに基づいて、一旦開始された思考-それが問題解決のための思考である場合に限らず-の結論を得ることには、意味があると考える。

しかしながら、論理は考え方の筋道のルールであるに過ぎず、このルールに照らせば物事の結論が一意的に定まるというものではない。この点、誤解を生じやすいので念のため言い換えると、結論のイメージを持たない者が論理的な思考を経てある結論に辿り着いたとして、その結論はなるほど論理的に説明し得るものであるが、他方で、別の結論を主張する者の論理的な反論に対して、直ちに磐石な防御ができるというものでもないのである。

思うに、結論の数だけ異なる論理的思考があり得るのであり、その意味で、論理的に考える、説明するということは、複数あり得る結論を吟味する際の前提条件でしかないとも言える。そして、複数あり得る結論の中から一つを選定することが必要となる場合には、単に論理的に正しく説明されるということだけでなく、それ以外のあり得る結論に対する論理的な説明に対する論理的な反論も必要となり、さらに、その反論に対する反論に対する反論が必要となるといった具合に、お互いの論理的な矛盾を暴きそれを指摘するという行為の積み重ねの結果として、相手側からの指摘に抗し切れない主張が葬り去られる結果として、最終的には一つの結論が残ることになるのである。

重要なことは、以上の過程を経ることにより、なぜその結論に至ったのかを論理的に説明することは可能となる一方で、他のあり得る結論とその結論のどちらが望ましい結論であるのかについては、何も語っていないのである。たまたま論理的な脆弱性を持っていたが故に主張を取り下げざるを得ないこともあろう。

別の見方をするならば、一つの問題に対して複数の結論があり得る中で、その何れについても論理的に正しい説明が可能であるとするならば、やはり、論理自体が結論を導くと言うよりも、自分が欲する結論が先にあって、これを論理的に説明することで説得力を持たせるという順序があり得ると言えよう。

とすれば、そもそも自分が欲する結論というものは、どのようにして得られるのか。自分が欲すべき結論が何であるかをどのようにして見出すのか。そのための方法論というものが必要となろう。そして、その方法論とは論理とは別のところにあるのである。
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# by myview | 2006-01-04 16:35 | 私の見方

「愛国心」とは

先日読んだ、日本に帰化したある外国生まれの人が書いた本の中に、愛国心について論じた章があり、その中で、愛国心とは愛する家族・愛する人の住む国への愛情である、という趣旨のことが書かれていた。目から鱗が落ちる思いがした。

愛国心という言葉を聞くとき、我々は、国家という存在を愛する自分自身を想像し、自分という人間と国家という存在を一対一に結び付けて捉えやすい。この結びつきは無機的であり、それ以前にそもそも実感しにくい結びつきである。そのため、愛国心という響きにどこか空虚なものを聞き取るのだと思う。

しかし、自分の家族・自分の愛する人と自分の関係は、そういうものではない。そこには血の通った関係があり、また、日々、新たな思い出が生まれてくる関係でもある。さらには、自分自身の存在を確認する機会でもある。そういう人々の生存が脅かされたら自分はどう行動するのか、この質問に対する答こそが、他ならぬ、仮に、日本が外国から侵略された場合に自分はどう行動するのか、という質問に対する答になるのだろう。

さて、現在の日本で愛国心と言うと、どこか、誰も普段考えもしないようなことを言い出したような感がある。実際、愛国心をテーマにして議論しても盛り上がりに欠けるだろうし、戦争と短絡的に結びつけた極端な意見が出てくるかもしれない。

それには理由があると考える。要は、日本人同士の心の通い合いが、現在、かつてないほどに希薄化していると思われるのだ。日常生活の中でもそれは明白であり、電車の中での席の譲り合いから、ファストフードの店でのマニュアルどおりの店員の応対から、はたまた友人同士の会話に至るまで、人と人との接し方が希薄化していると思われるのだ。

そのような中では、隣人が困ろうとも災難に遭遇しようとも、わが身のように心配し、心を砕くことはなく、せいぜい、自分自身に起こらなかったことを幸いと思うか、将来、自分に同じことが起こらないよう注意するか、といった程度ではないだろうか。そして、そのような状況で愛国心が芽生えることはないのだと思う。

人間関係の希薄化は、世の流れとも言える。インターネットの普及により、一人の人間が相手にできる人間の数が爆発的に増大したし、その結果として、個々の人間を意識するような素振りを見せつつも、実際にはカテゴリー分けをして、それなりの大人数を一括りにして捉えることが必要悪になっている。

それでいて、そのような人間関係に我々自身が適応できているかといえば、不適応のためにメンタルな問題に発展する人の数も増大していると聞く。

愛国心云々ということ以前に、人間関係が不可逆的に希薄化していることにどう対応していくか。根本的であるが故に答も出しづらい課題だが、避けて通れない課題だと考える。
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# by myview | 2006-01-04 12:54 | 私の見方

「歴史」を知る意味

最近の若者は歴史を知らない、とよく言われる。そして、それは事実だろうと思う。私の周囲でも、歴史に詳しい友人は、大抵は歴史が好きで、それを知ることを趣味としていた人が大半である。受験勉強で必要に迫られて歴史を勉強した人は、そもそも、大学卒業後に自分の口から歴史を言い出す人は、今のところいない。

また、歴史に詳しい友人は、趣味であるが故に、人に対して、歴史を知るべきだと主張する者はなかったし、歴史の生き証人とも言える比較的高齢の方から、歴史を知ることの意義を説かれたこともない。

そのような中で、南京大虐殺や靖国参拝といった歴史に絡む事例について、海外から批判され、これをマスコミが取り上げ、そうした一連の動きの中で、現代に生きる日本人として、このような状況をどう捉えるべきか、という問いかけの中でのみ、最近の若者が歴史を知らないことが責められているように思う。

歴史を知らないのは、歴史を知る意味を理解していないからだ。誰とて、やる意味の理解できないことをやりたいとは思わない。それは、歴史の勉強に限らない。そして、歴史を知る意味を理解していないのは、それを教わる機会がなかったからだ。歴史(=史実)を教わる機会はあっても、史実を勉強することの意義を教わる機会は驚くほど少ない。

戦争を生き抜いてきた人々は、二度と戦争を起こしてはならないという。そして、戦時中の苦しい生活を説く。現代に生きる我々とて、その時代に逆戻りしたいとは思わない。が、現在は飽食の時代。戦争当時には考えられないほどの無駄が日常的に放置されており、もっと言えば、そのような無駄こそが商売の利益の源泉とも言い得るほどに、現在の生活には無駄が組み込まれてしまっている中で、戦争から何を教訓として引き出すか、途方に暮れるのも無理はない。

しかし、それだからと言って、歴史を学ぶ意味がゼロだということにはならない。二度と戦争を起こしてはならないと思う以上は、何が戦争を引き起こしたのかを知る必要がある。ただし、そのためには努力が必要で、戦時中の体験談を聞くだけでは、勉強したことにはならないのである。そのような体験を国民に強いた背景に、どのような事実があったのかを知ることが不可欠なのである。そして、そのような事実関係は、一国民が戦時中に体験したことの中からは知り得ないものである。

もちろん戦争と歴史とは同義ではなく、単に戦争というコンテクストだけを捉えるのは適切ではない。ここで戦争を引き合いに出したのは、通常、我々が歴史と言うとき、それは太平洋戦争と密接に関わっているからに過ぎない。このことを踏まえれば、歴史の勉強とは、歴史上の事実の内容はさることながら、そのような事実が実現した背景・原因を知ることにある、と言い換えるべきかも知れない。

さて、そのような背景・原因を学ぶことから得られることとして、単にある過去の一時点における事実の発生原因が分かるというだけでなく、時代を超えて人間が繰り返し犯す可能性のある行為の一端を、そこにみることがある。それは、私に言わせれば、歴史を勉強することにより得られる果実のようなものである。

そのような果実を一旦手にしたならば、歴史を学ぶ意味を説くまでもなく、歴史を学びたい衝動にかられるようにすらなってくるのだと思うのである。
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# by myview | 2006-01-03 07:46 | 私の見方

批判することの功罪

批判する、という行為は望ましいものか否か。この問いに対して、大方の人は「望ましくない」と反応するのではないだろうか。そして、その反応はある意味で正しいと考える。ある意味というのは、先の問いが発せられる前提条件に関わることである。

批判する側にとって批判する意味は何か、批判される側にとって批判される意味は何か、ということを考えてみればよい。批判という行為に意味があるとすれば、それは、批判する側、される側の双方が同一の目的、すなわち、批判を経てより考えが深まるとか行動が深化するとか、そのような目的を共有できる場合であると考える。

したがって、言い換えるならば、このような目的が共有できない状況の下では、批判という行為に意味はなく、また、批判という行為の性格からして、そのような行為は望ましくないと考えるのは極めて自然なことであると思う。

では、批判という行為がなされない方がよいのかと言えば、そうではないと考える。要は、批判という行為がなされるための前提が整っている、すなわち、先の目的が共有されている状況が、昨今はほとんど見受けられなくなっているために、批判そのものが成立しなくなっているのだと考える。

もしもこうした前提が整っていて、その上で批判という行為がなされるのであれば、その方が、批判というものが成り立たないが故になされない、という状況よりも遥かに望ましいと私は考えるのである。

そもそも批判という行為が成り立たない状況が一般化している現在、これを改善しようとすれば、人間関係一般のあり方にまで立ち入らざるを得ないが、今回はそこへは立ち入らずにとどめておきたいと思う。
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# by myview | 2006-01-02 20:05 | 私の見方

「観」に思う

人生観、歴史観など、およそ「観」の字を伴う単語は、「見方」を意味する。そして、その「見方」とは、人によって異なるからこそ「見方」なのであり、人の数だけ「見方」があってよいと、私は考える。

しかしながら、その対象物によっては、それでは済まされない。済まされるか済まされないかは、その対象物と自分自身との関係の直接性の程度による。というよりも、自分自身が、その対象物との関係を直接的なものと捉えるかどうかによる。

自分に関係が薄いと思うことについては、誰でも寛大でいられるものであるし、モノによっては、ことさら考えるまでもなく、自分との関係の深浅が明らかなものも多い。しかし、すべてがそうであるわけではない。

自分がその対象物に対して、当事者意識を持つかどうか、そのような主体性を自分の側から持つかどうかという、優れて自分自身の意思の持ち方によって、その対象物の捉え方について、自らが寛大でいられる度合いも異なってくるものだと、私は考える。

一つの「見方」に立つことは、そのこと自体、自分自身にある種の覚悟を要求する。それは、その「見方」が正しいかどうかに関することである場合もあれば、さらに踏み込んで、自分がその「見方」に基づいて考え行動することの結果に関わる場合もある。

しかし、逆に、一つの「見方」に立たない限りは、その人の考え方や行動は力を欠いたものとならざるを得ないと考える。そして、その一つの「見方」を選びとっていくプロセス、その「見方」に立脚して物事を考え、行動していくプロセスは、ある意味で、その人の人生の営みとも深く関連してくるのではないかと考える。

今年は、そのようなことをつらつらと考えながらスタートした。このブログをどう活用していこうか、未だ思案中であるが、まずは、新年早々のメッセージとして発信することにした次第である。
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# by myview | 2006-01-02 15:43 | イントロ

イラク渡航禁止法? 賠償請求?

3人の人質が解放されて、日本国内では、イラク渡航禁止法の制定や、人質の解放に要した費用の賠償請求といった声が出ている。

確かに、余りにも無防備な善意が招いた事態であり、これに対する批判もあろうし、再発を許さない思いもあるだろう。

しかし、法律で禁止するような話だろうか。法律でペナルティを与えるようにしないと、自らの危険を避け、他人への迷惑を考えることができないような国民なのであろうか、我々日本人は。余りにも情けないと思う。

また、賠償請求にしても、かかった費用がいくらであるかも明らかにされない状況の下で、また、海外で誘拐されたケースはこれまでもあるのに、今回に限り賠償させるというのも、今ひとつ理解できない。被害者の関係者がマスコミを通じて世間に示した態度に対する感情的なものが背景なのだとすれば、余りにも稚拙な議論だと思う。

日本のマスメディアは、こういうときに実況中継のごとく情報を流す傾向があるが、渡航禁止法の制定のメリット・デメリット、賠償請求が適当と考える理由、不適当と考える理由など、こうしたトピックについて、国民一人一人が頭を使って自ら考えるための素材を提供するような形で貢献できないものだろうか。
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# by myview | 2004-04-16 22:12

解放前夜の動きについて

昨日、外務大臣が、3人の解放の経緯について記者から問われた際に、まだ2人残っている状況では多くを明らかにできない、という趣旨のことを述べられたと思う。

それにも拘わらず、今日の新聞報道で、3人の解放の経緯について、いろいろな情報が流れている。

これは、政府部内における情報管理の問題なのか、それとも、新聞記者が政府以外に特別な情報ルートを持っていることによるのか分からないが、少なくとも、外務大臣の考え方を共有していない人が政府部内や新聞記者の中にいる、ということだろうと思う。

昔、国内で誘拐があったときに、新聞報道がなされるのは誘拐された者が無事保護されてからだった。そして、そのときの新聞報道では、「被害者の無事保護を第一に考え、保護に至るまでの間、報道を差し控えていた」と必ず付記されていた。

最近の報道では、そうした暗黙のルールのようなものはなくなってしまったのだろうか。
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# by myview | 2004-04-16 16:14